幸せをつかむあたまのなかの手
休みの日、太陽が昇って小鳥の囀りが一段落したあとに、ちょっと濃い目の珈琲と村上春樹のエッセイを胃袋と頭に流す時間が楽しい。小確幸。
村上春樹さんの作品は小説も面白いんだけど僕はエッセイもけっこう好きだ。
今の時期の弱い日差しを心地よく感じながら、ゴツゴツしていなくて読みやすい決して重たいと感じることのない文章をゆっくりと読み進める。
BGMはあってもなくてもよい。気持ちはリラックス。頭の回転はアイドリングストップからローギアに入れたばかりのようなスピードが丁度よい。ゆっくりと。
どうでもいいような話がけっこうあるけど、そのどうでもいいような話が、読むとなぜだかスッキリさせられる。
ちなみに村上ラヂオ2 の「エッセイはむずかしい」という話の中でエッセイを書くに際しての原則があって、その条件をクリアしたあと残る話題について言及している。
要するに「どうでもいいような話」に限りなく近づいていくわけだ。僕は個人的には「どうでもいいような話」がわりに好きなので、それはそれでかまわないんだけど、ときどき「お前のエッセイには何のメッセージも無い。ふにゃふにゃしていて、思想性がなく、紙の無駄づかいだ」みたいな批判を世間で受けることがあって、そう言われると「ほんとにそうだよな」と思うし、また反省もする。
そうしてカフェなんかで客観的に見たら変な人と思われても仕方ないニヤニヤした表情で読んでいると、時々ウーンと考えさせられる話に出会ってしまう。
今日遭遇したのは「ちょうどいい」(村上ラヂオ2)という話。
僕はもうなかなかの歳だけど、自分のことを「おじさん」とは決して呼ばない。いや、たしかに事実的にはおじさんというか、じじいというか、間違いなくそのあたりなんだけど、自分ではそうは呼ばない。なぜかというと「私はもうおじさんだから」と口にした時点で、人は本物のおじさんになってしまうからだ。
女性の場合も同じ。「私なんかもうおばさんだから」と言った時に(たとえ冗談や謙遜のかたちであったにせよ)、その人は本物のおばさんになってしまう。いったん口に出された言葉にはそれくらいの力があります。ほんとに。
と始まる。言葉の力はすごいのだ。
いずれにせよ僕にとっては「ちょうどいい」というのが人生のひとつのキーワードになっている。ハンサムでもなく、脚も長くなく、音痴だし、天才でもないし、考えたら良いところなんてほとんどないようなものだけど、でも僕的には「これくらいでちょうどいいと言えば、ちょうどいいかなあ」ということになる。
この文章のあとに簡単に理由が書かれている。大事なのはどう捉え固定化するかかな。
最後にこう締めくくられる。
そういう具合に、「このへんでちょうどいいかな」とゆるく思えるようになると自分がおじさん(おばさん)かどうかなんて、どうでもいいことになってくる。何歳だろうがそんなこと関係なく、ただの「ちょうどいい」人です。年齢についてあれこれ感じるところのある方は、できるだけそう考えるといいと思います。場合によっては簡単じゃないかもしれないけど、まあお互い、がんばりましょう。
日々幸せになりたいと思い、幸せを探し求めている僕たちは、その幸せをつかむことができる手は自分のあたまの中にあるということをわかればいいのだ。
現代日本を代表するゴッドバンドMr.Childrenの桜井さんも示している。
「今僕を取りまいている 世界はこれでいて素晴らしい」
「どんな不幸からも 喜びを拾い上げ
笑って暮らす才能を誰もが持ってる」
「皆 憂いを胸に 永い孤独の果てに
安らぎのパーキングエリアを捜してる」
「でも本当に価値ある物とは一体何だ?
国家 宗教 自由 それとも愛
一日中悩んだよ
でも結局それって理屈じゃない」
「あぁ世界は薔薇色
総ては捕らえ方次第だ
ここは そう CENTER OF UNIVERSE」
Mr.Children - CENTER OF UNIVERSE - STADIUM ...
そう世界はすばらしい。
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